新緑のまぶしい季節になりました。御神域が一気に若返ったように瑞々しく輝いています。
この時期の鎮守の森を吹き抜ける風にあたっておりますと、何とも言えぬ清々しい気持ちになり、この御神域に日々神仕えさせていただいていることに改めて感謝の思いを深めます。
神道に「常若(とこわか)」という言葉があります。これは若々しく生命力に満ち溢れた状態を尊び、いつまでもそうあろうという意味の言葉です。
もちろん、時の流れを止めることは出来ません。人は必ず歳を取りますし、形あるものはいつかは滅びます。ですが身体の老いは抗いがたくても、「心」の、「魂」の老いに抗うことはできます。
神社神道において「魂」とは何かといえば、人はみな生まれ育つ土地の氏神様(産土神様)と、父母をはじめとする祖先から御魂を分け頂いてこの世に生まれると考えます。
神様から頂いた魂のままに、清く・明く・直く・正しくあることが人の生きるべき道であり、それこそが「神道」とも言えます。
鎌倉時代に成立した『伊勢二所皇大神宮御鎮座伝記』には
「人はすなわち天下(あめのした)の神物(みたまもの)なり
心神(わがたましい)を傷ましむるなかれ」とあります。
鎌倉幕府を倒し、建武の新政を興された後醍醐天皇は、
「みな人のこころもみがけ千早ぶる 神のかがみのくもる時なく」と詠まれました。
生きていると様々な辛苦がありますが、そういったことにせっかく神様から頂いた魂を濁らせることなく、曇らせることなく、澄んだ鏡の様に常に磨き輝かせて、明るく生き生きと生きる。これが「常若」であり、「神道」であります。
江戸時代の伊勢豊受大神宮の祠官だった橘弘政は
「わが心清め清めてよく見れば まことは神も我が心なり」と詠みました。
「心(魂)」を清めに清めて神様に頂いたままの真っ新の「心(魂)」に立ち返れば、それを通路として神様に通じることが出来る。常に魂を祓い浄めて「常若」に「神の道」を歩む人にこそ神様の御加護があるのです。
森の木々に目を向けますと、常緑樹も落葉樹も一年毎に年輪を刻みながらも生命力を更新し、古い葉を落とし、新しい葉を繁らせるさまは「常若」を体現しているともいえましょう。
新緑に萌え、若々しい生命力と神気みなぎるこの常若の鎮守の森にて、魂を祓い清めて神様の御加護を頂き、明るく元気に生きていこうではありませんか。